尾崎 放哉(おざき ほうさい)
本名・尾崎秀雄
1885年(明治18年)1月20日 – 1926年(大正15年)4月7日
自由律俳句の俳人としては、種田山頭火と並んで著名な俳人である。山頭火の動に対して、放哉は静と言われる句風を持つ。
荻原井泉水の下で、層雲紙上で活躍した。
詳しくは「●尾崎放哉特集●」を参照
代表句
・咳をしても一人
・いれものがない両手でうける
・春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
…等、多数。
略歴
現在の鳥取県鳥取市に士族の家の次男として生まれる。
鳥取県立第一中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。
句作は既に14歳の頃から始めていた。
その後、通信社を経て、東洋生命保険株式会社に入社。
結婚もして、順調にエリートコースを歩む。
東洋生命保険大阪支店次長や本社の契約課課長など管理職を経験するが上手くいかず退社。
この東洋生命保険にいるときに、自由律俳句に転向する。
その後、再起を期して朝鮮火災海上保険の支配人となり、朝鮮に行ったたが罷免される。
さらに満州に向かうが肋膜炎が悪化し現地で入院。
帰国後、京都の一燈園に一人で入り、暮らす。
これ以後、流浪の俳人となる。
知恩院塔頭常称院、須磨寺大師堂、福井県小浜常高寺などを転々。
京都の荻原井泉水のもとに転がり込む。
海の見えるところで死にたいという放哉の願いがあり、井泉水や小豆島の層雲同人である井上一二、杉本玄々子らの計らいで終焉の地となる小豆島の西光寺奥の院南郷庵に入る。
大正15年に41歳の若さで死す。
死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。
戒名は杉本玄々子と井泉水により大空放哉居士と名付けられる。
参考文献
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