池畑秀一

池畑秀一(いけはた しゅういち)

池畑秀一 自由律俳句

1951年(昭和26年)–

夭折した天才的自由律俳人、住宅顕信と生前から親交があり、顕信を世に出した人物として知られている。
趣味として定型俳句を始めようとしていたときに、藤本一幸の自由律俳句に興味を持ち、1986年8月から層雲の購読を始めた。
その8月に同じ岡山で層雲に入門した人がいると層雲事務室の池田実吉から聞いた住宅顕信が池畑に電話をかけてきて、病院に遊びに来るように誘われたのが顕信との縁となった。
当時、35歳の池畑と25歳の顕信との出会いであった。
しかし、その後、半年経たずに顕信は逝去する。
一周忌までに句集「未完成」を顕信の両親が出版する予定であったが、依頼していた顕信の師である池田実吉が病気で倒れて頓挫。
そこで池畑が両親から出版を任され、「尾崎放哉全集」の版元である彌生書房と交渉し、出版が決まった。
その後も多くの協力者と共に獅子奮迅の活躍で住宅顕信を世に知らしめた。

略歴

鹿児島県にて出生。
理学博士
岡山大学教授(専門は代数学)

参考文献

住宅顕信全俳句集全実像―夜が淋しくて誰かが笑いはじめた

アルファ線型代数

小山貴子

小山貴子(こやま たかこ)


(とりネットより引用)

1951年(昭和26年)–

1975年に「層雲」に加わる。
自由律俳人であると共に、尾崎放哉研究家としても知られる。
大学の卒業論文、および大学院での修士論文でも放哉を取り上げているとのことで、放哉研究歴も長い。
自由律俳句結社「青穂」を主宰、また「放哉」南郷庵友の会々員でもある。
著書である「暮れ果つるまで―尾崎放哉と二人の女性」は放浪の末の孤独な死をイメージする放哉の女性関係を扱った斬新な書である。
また、層雲百年の歴史をまとめ上げた「自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究」も貴重である。
タレント伊集院光のラジオ番組にも出演し、自由律俳句について語っている。
「自由律俳句に関する自由律俳句を語る 伊集院光×小山貴子 TBSラジオ(「伊集院光とらじおとゲストと」より)」

代表句

・固唾をのんで森の月蝕
・売り子の声も小さく終着駅
・鷺どこまでも白くて一羽でいる

略歴

静岡県にて出生。
大阪教育大学大学院を修了。
大阪の府立高校教諭として勤務する。
大阪府豊中市在住。

参考サイト

自由律俳句結社 青穂HP

参考文献

暮れ果つるまで―尾崎放哉と二人の女性

杉本玄々子

杉本玄々子(すぎもと げんげんし)

杉本玄々子 自由律俳句

法名・杉本宥玄
1891年(明治24年) – 1964年(昭和39年)

層雲同人。
荻原井泉水が小豆島遍路に来た際、層雲同人の井上一二と共に同行した縁もあり、俳句において井泉水の門下となった。
自由律俳人の尾崎放哉終焉の地となったのが、小豆島の西光寺奥の院南郷庵である。
この西光寺の住職として、井上一二と共に放哉の小豆島での生活を支えたことは有名である。
放哉は随筆の「入庵雑記」において、玄々子を「温厚親切其のものゝ如き方」と評している。
小豆島の土庄町にある尾崎放哉記念館の前庭に杉本玄々子の句碑がある。

代表句

・梅花無尽蔵十方月の光りなり
・少し生きすぎたと思ひ杖のよろしきを思ひ

略歴

小豆島八十八ヶ所霊場の第五十八番札所である小豆島西光寺(真言宗)の第26世住職を務めた。

参考文献

海も暮れきる (講談社文庫)