成田夜雨

成田夜雨(なりた やう)

成田夜雨 自由律俳句
本名・成田直道
1884年(明治17年)年1月20日 –1970年(昭和45年)年8月13日

1906年頃から俳句をたしなむ。
竹内竹童、前田冬川、柳田柳子、竹内呉竹らと渋茶会を結成。
1907年に河東碧梧桐が青森県に来るが、その際、嶽温泉に同行して遊ぶ。
1908年には弘前俳句会の機関誌「渋茶」を創刊。
「渋茶」第4号以降は夜雨の家が事務所となり、責任者のような形となる。
1912年に荻原井泉水が弘前に来るが、その際、夜雨の自宅に3泊した。
1917年に竹内抱甕子らと「層雲」弘前支部を作り、元渋茶会のメンバーが参加する。
1918年に「層雲」弘前支部は群青社に、1924年には群星社となるが、1926年に太平会、群青社、群星社を統合した第二次無名会が結成される。
1931年に井泉水が青森に来るが、それを機に鷹の会が出来る。
鷹の会の例会の多くは夜雨の自宅で開かれたことからもわかるように、夜雨は鷹の会の指導者であった。
1933年、一戸馬寒らと「群鳥」という俳誌を創刊する。
1946年には自由律俳句誌の「鷹」を創刊する。
1959年、鷹の会で夜雨の喜寿を祝う会が南柳荘で開かれた。
夜雨が亡くなった後、夜雨追悼号が「鷹」165号として出た。
その後、「鷹」は1974年の187号まで続いた。

代表句

・かたみの眼鏡が合うてきてはつきりと秋
・肩車にしてゆく咲きあふれている
・いつ召されてゆくとも、音たててすする鱈汁なり

略歴

青森県弘前市にて出生。
和徳尋常小学校、青森県第一尋常中学校、明治法律専門学校(現在の明治大学)と進むが胸部疾患で療養のため地元に戻る。
1912年に角弘青森支店で働き始める。
1914年に結婚して、青森の借家で暮らした。
その後、角弘本店のある弘前に転勤になり、妻と実家で暮らす。
1935年に長女が誕生、それを機に独立して田代町の新居に住まう。
86歳にて逝去する。
墓は弘前市新寺町真宗大谷派正蓮寺の本堂裏手にある。

三好草一

三好草一(みよし そういち)

1908年(明治41年)–2003年(平成15年)12月

「層雲」に加わり、自由律俳人として活躍。
層雲撰者でもあった。
河本緑石の弟子であった山根志能武が立ち上げた「あをぞらの会」のメンバーが戦後、新しい会を立ち上げた。
名称は「ペガサス」→「梨の花」に→「きやらぼく」と変わった。
この現在も活動している「きやらぼくの会」を唱導していたのが三好草一である。

代表句

・新しい本買ってきてさむい夜ただいま
・二階を借りてたつた一つある窓の秋の山かな

略歴

鳥取県倉吉市出身

村野四郎

村野四郎(むらの しろう)

村野四郎 自由律俳句

1901年(明治34年)10月7日 –1975年(昭和50年)3月2日

村野四郎と言えば、詩人として一家を成した人物である。
ドイツ近代詩からの影響もあり、事物を冷静に見つめることにより、
客観的な美を目指した。
詩集「亡羊記」で第11回読売文学賞。
室生犀星から「現代詩の一頂点」という高い評価を得ている。
他にも多くの詩集を出しており、詩論、随筆などでも活躍。
また、卒業式でよく歌われる「巣立ちの歌」の作詞者であり、有名な童謡である「ブンブンブン ハチがとぶ…」の日本語作詞者でもあある。
このように詩人としての業績があまりに顕著であるため、触れられることは少ないが、若いころ、層雲にも自由律俳句を投稿していた。
府中市郷土の森博物館には村野四郎記念館がある。

代表句

・眼鏡屋めがね磨きゐて夕日の薄れやう
・櫻ぬくとき夜は田舎の先生のおるがん
・鉢花の如く静かに心をおこうよ

略歴

現在の東京都府中市において、酒、食品、それに建築資材などを扱っている富裕な商家に四男として出生。
男兄弟は7人おり、二男の兄、次郎は歌人(北原白秋門下)であり、三男の三郎は詩人(西条八十門下)であった。
中学時代は体操をしていた。
府立第二中学校(現在の東京都立立川高等学校)を卒業後、東京商科大学を受験するが失敗。
翌年、慶應義塾大学の理財科(現在の経済学部)に合格した。
卒業後は尼埼汽船に入社するが、すぐに辞める。
その後、理研コンツェルンで働き、39歳の時には子会社の社長となるなど、実業でも活躍。
実業界と詩作を両立させた点も評価されている。
晩年にはパーキンソン病に冒されていた。
73歳にて逝去。

参考文献

村野四郎詩集 (現代詩文庫)

詩人 村野四郎