池原魚眠洞

池原魚眠洞(いけはら ぎょみんどう)

本名・茂二
1893年(明治26年)12月3日 – 1987年(昭和62年)2月13日
大正7年に荻原井泉水の門下となり、その後、「層雲」の選者となるなど活躍。
層雲賞や層雲文化賞を受賞したこともある。
しかし、昭和43年に、層雲を去り、自ら「視界」を創刊して主催した。視界においては「現代詩としての一行詩」を理念にしたという。

代表句

・笑つてわらつて涙が出るほど笑つたあとの、みかん
・月の明るさは音のない海が動いている
・いちにちうちにいて冬の日が部屋の中移ってゆく

略歴

鳥取県気高郡鹿野町鹿野に生まれる(現在は鳥取市)。
東京高等師範学校専攻科を卒業し、愛知県において教育者となる。
中学教員、校長などを務める。
その後、金城学院大教授になり、後、金城学院大学名誉教授。

大橋裸木

大橋裸木(おおはし らぼく)

本名・大橋猛(通称は鎮)
1890年(明治23年)8月9日 – 1933年(昭和8年)8月8日

荻原井泉水から「裸木は俳句の鬼だ」と言われるほど俳句に情熱を燃やした俳人である。
自由律俳人としても高い評価がある。
また、「陽へ病む」という最も短い俳句、あるいは詩を詠んだ俳人でもある。

代表句

・陽へ病む
・ちんぽこに西瓜の雫たらして子の機嫌よし
・涼む子のおそそが見えたりして涼しきかぎり

略歴

大阪市西区で代々、鉄工所を営む猿田力蔵の次男として生まれるが、離婚に伴い母方の姓である大橋を名乗る。
しかし、8歳で母親と死別したため父親の家に戻って生活する。
市岡中学に入学したころから俳句を作り始め、中学を出た後は父の手伝いをする。
父が亡くなった後、、東京・四国・大阪などを転々とし、東京で少年雑誌の編集をする。
桂原かめと結婚する。
定型俳句を作っていたが、その後、層雲に加わり、自由律俳人として活躍する。
病気を患い、妻の里である奈良県宇陀郡曽爾村に行き療養する。
三重県名賀郡阿保町、津市乙部町、京都市下京区唐橋花園町へと転々とする。
京都市下京区朱雀内畑町へ移る。
鳥取の大山登山からの帰りに荻原井泉水が見舞うがその翌日、43歳で亡くなる。
参考文献

『人間を彫る』(大正十四年刊)
『生活を彩る』(昭和三年刊)
『四十前後』(昭和六年刊)
『海国山国』(昭和八年刊)

内島北朗

内島北朗(うちじま ほくろう)

本名・内島喜太郎
別号として、北楼・北琅などがある
1893年(明治26年)8月1日 – 1978年(昭和53年)3月28日

自由律俳人であると共に陶芸家であり、随筆家でもあった。
層雲に参加、自由律俳人として活躍し、指導的役割を果たす。
荻原井泉水亡きあとは「層雲」の発行人となる。

代表句

・なんでもない男と女とひぐらしがなく
・口笛吹いて沈みたる海女に海青し

略歴

富山県高岡市の出身。
六世尾形乾山に入門して焼き物を学ぶ。
同門には富本憲吉やバーナードリーチ等がいる。
京都で陶工として活躍する。
1942年から10年ほど長野県の安茂里に移るが、後、京都に戻る。
フランス万国博銀賞を受賞、また帝展にも3回入選した。
俳句は河東碧梧桐、筏井竹の門について学ぶが、後に荻原井泉水の層雲に加わる。
29年には層雲文化賞を受賞している。
他に禅道を山田無文老師から学んでいる。
著書としては「壺屋草紙」「陶房」など多数存在する。
書画にも優れ、そのマルチな才能から「文人墨客の陶工」とも言われている。
参考文献

北朗来庵