井上一二

井上一二(いのうえ いちじ)

井上一二 自由律俳句

本名・井上文八郎
1895年(明治28年)1月20日 – 1977年(昭和52年)8月
荻原井泉水の門下となり、自由律俳人としても活躍。層雲同人。
政治家・経済人・文化人であり、「飄々とした中にもきりっとした人格者」だったと伝えられる。
小豆島に突然やってきた尾崎放哉に対して、いろいろと思うところはあっても、島の有力者として世話したことでも知られる。
同じく、層雲同人の杉本玄々子と共に、小豆島での尾崎放哉の生活を支えた。

代表句

・あたままろめて来てさてどうする
・海恋ふて風呂敷かかへて来た

略歴

小豆島の渕崎にある醤油醸造業の裕福な家の次男として生まれる。
荻原井泉水の門下となる。
井泉水に尾崎放哉のことを頼まれるが、適したところが見つからず、断るつもりが、放哉が突然やってきた。
地元の名士であり人格者である一二と生活破綻者の放哉ではそりが合わないこともあったが、きちんと世話をしたと言われる。
渕崎村長、香川県議など政治的にも活躍、会社社長、土地改良区組合長、小豆島ロータリークラブの初代会長など、経済的、社会的にも活躍した。
淵崎村長の時代には大阪の東洋紡績の誘致に成功し、雇用の創出を図るなど活躍した。
享年82歳にて多くの人に惜しまれて亡くなる。
姉の孫、つまり従甥に自由律俳人の井上泰好がいる。

参考文献

新装版 海も暮れきる (講談社文庫)

野村朱鱗洞

野村朱鱗洞(のむら しゅりんどう)

野村朱鱗洞 自由律俳句

本名・野村守隣(モリチカ)
1893年(明治26年)11月26日 – 1918年(大正7年)10月31日)

若くから頭角を現し、天才俳人として大いに期待された。
自由律俳句界の大御所と言える荻原井泉水を継ぐ人物と見做されたこともある。
しかし、若干25歳で当時流行したインフルエンザ(スペイン風邪)により死去した。

代表句

・舟をのぼれば島人の墓が見えわたり
・淋しき花があれば蝶蝶は寄りて行きけり
・風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜

愛媛県温泉郡素鵞村、現在の愛媛県松山市に生まれる。
父は温泉郡役所に勤めており、母は機織りをしていたが、朱鱗洞が13歳の時に母が亡くなった。
その後、父と同じ温泉郡役所に勤める。
松山夜間中学校に入学するも、中途で退学する。
その後、層雲に参加。
俳句結社の「十六夜吟社」を結成し、主宰する。
また、海南新聞の俳句欄選者となったり、層雲松山支部を結成するなど、活発に活動する。
しかし、1918年(大正7年)に亡くなった。

参考文献

山頭火と朱鱗洞

又吉直樹(ピース又吉)

又吉直樹(またよし なおき)

ピース又吉 自由律俳句

本名・又吉直樹
1980年(昭和55年)6月2日 –
吉本所属のお笑いタレント。綾部祐二と2人でピースと言うコンビを組んでいる。
文筆家のせきしろとの共著で「カキフライが無いなら来なかった」「まさかジープで来るとは」の自由律俳句の本を出しており、その面白さで注目される。
自由律俳人としての才能を今後も発揮し続けるのか注目されている。

代表句

・こんな大人数なら来なかった
・カキフライが無いなら来なかった

略歴

出身は大阪府寝屋川市。
北陽高校でサッカー部に所属。
その後、タレント養成所である吉本総合芸能学院(NSC)東京校の5期生となる。
最初は原偉大とコンビを組んで「線香花火」として活動するが解散。
その後、綾部祐二とピースを結成し、芸能界で知られるようになる。
お洒落芸人としても知られている。
文芸雑誌の「文学界」に発表した「火花」と言う小説が絶賛され、文学的才能が認められる。
「火花」で第28回三島由紀夫賞候補となるも一票差で涙を呑む。
2015年7月に第153回芥川賞を受賞する。

参考文献

カキフライが無いなら来なかった (幻冬舎文庫)

まさかジープで来るとは (幻冬舎文庫)

火花

芸人と俳人

新・四字熟語 (幻冬舎よしもと文庫)