鶴田博子(つるた ひろこ)
1945年1月5日(昭和20年) –
旧姓は三宅。
田中波月等の「主流」から「層雲」に移る。
「層雲」代表を務める鶴田育久の妻である。
句集に夫である鶴田育久との共著句集「標野」、遺句集である「雪葉」がある。
代表句
・夢でなかった一生の恋文が降る獅子座流星群
・濃い匂いして姉に子が産まれだす夜
・流星いつか私が堕ちていく地の涯
国学院大学国文科を卒業
胃がんにより逝去。
鶴田博子(つるた ひろこ)
1945年1月5日(昭和20年) –
旧姓は三宅。
田中波月等の「主流」から「層雲」に移る。
「層雲」代表を務める鶴田育久の妻である。
句集に夫である鶴田育久との共著句集「標野」、遺句集である「雪葉」がある。
代表句
・夢でなかった一生の恋文が降る獅子座流星群
・濃い匂いして姉に子が産まれだす夜
・流星いつか私が堕ちていく地の涯
国学院大学国文科を卒業
胃がんにより逝去。
鶴田育久(つるた いくひさ)
1938年(昭和13年) –
「層雲」代表、編集長などを務める。
浜松にて自由律俳句入門講座の講師など、自由律俳句の普及に努める。
句集にあいぞめ(1992年松の会より出版)や亡き妻で同じく俳人の鶴田博子との共著句集である「標野」、亡き妻への思いを詠んだ「雪鶴」がある。
代表句
・北の風吹く駅の見えない海を聞いている
・まだ残る温みへ紅引く花になってゆく
・今年も同じ人か名前の無い謹賀新年
静岡県浜松市東区在住
号・澄江堂主人
俳号・我鬼
1892年(明治25年)3月1日 – 1927年(昭和2年)7月24日
日本を代表する小説家の一人として知られているが、俳句も嗜んでおり、自選の「澄江堂句集」がある。
高浜虚子の「ホトトギス」や河東碧梧桐の「海紅」にも関係した。
特に俳句は小沢碧童から学んだが、他に小穴隆一、滝井孝作、古原艸等からも学んでいる。
ただ、「新傾向の句は二三句しか作らず」と述べている。
また、一游亭(小穴隆一)、魚眠洞(室生犀星)等と俳句を楽しんだことも語っている。
俳句以外に詩歌なども作った。
芥川と俳句の関係については芥川の書いた「わが俳諧修業」に詳しい。
代表句
・竹の芽も 茜さしたる 彼岸かな
・青蛙おのれもペンキぬりたてか
略歴
現在の東京都中央区にて新原敏三とフクの長男として出生、後、母方の叔父である芥川道章の養子となる。
東京帝国大学文科大学英文学科に進み、在学中に作家活動を始め、代表作の一つ「羅生門」を発表。夏目漱石の門下となる。
在学中に発表した「鼻」は漱石に絶賛される。
その後も短編小説を多く発表し、短編小説の名手として名を馳せる。
その後も多くの文士と交わりながら活躍するが、最後は服毒自殺で生涯を終えた。
芥川龍之介の業績を記念して創設された芥川賞は現在、新人、新進作家に与えられる純文学の権威ある賞として定着している。
参考文献
「わが俳諧修業」