高山れおな

高山れおな(たかやま れおな)

1968年(昭和43年)7月7日 –

古典に裏打ちされた前衛的、バロック的などと評される俳句を詠む俳人である。
自由律俳人と言う枠には入らないが、「麿、変?」など、自由な句も詠む。
早稲田大学在学中である二十歳ごろから句作を始める。
1993年から「豈」同人となる。
句集としては第一句集「ウルトラ」、第二句集「荒東雑詩」、第三句集「俳諧曾我」がある。
「ウルトラ」はフランス王政復古期の極右反動勢力であった「超王党派」に由来している。
荒東は荒川の東と言う意味である。
また、「ウルトラ」でウェーデン賞受賞、「荒東雑詩」では加美俳句大賞を受賞している。
2008年8月から2010年まで、中村安伸と共同で「―俳句空間―豈weekly」を運営。
2010年から朝日新聞の俳句時評も担当。
俳句や詩、短歌との交流を目指した「詩歌梁山泊」の実行委員を務める
2014年には俳句雑誌の「クプラス」を創刊する。

代表句

・麿、変?
・駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり
・あぢさゐの声か梁塵秘抄とは

略歴

茨城県日立市にて出生。
早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
「芸術新潮」の編集者。

参考文献

荒東雑詩―高山れおな句集

新撰21 (セレクション俳人プラス)

超新撰21―セレクション俳人プラス (セレクション俳人 プラス)

内田南草

内田南草(うちだ なんそう)

本名・寛治
1906年(明治39年) – 2004年(平成16年)11月19日

明治学院で萩原蘿月と出会い、門下となり、公私に渡り支援する。
蘿月の提唱する感動主義を忠実に受け継いだ。
南草の句に「たまに猫が通る冬の姿の蘿月句碑」というのがある。
1929年に「唐檜葉」(からひば)を発行、1939年に「多羅葉樹下」と改称する。
1947年に句誌「梨の花」を発行させ、1951年に「感動律」と改称する。
その後、「感動律」は南草が亡くなる2004年まで発行され続けた。
1957年に「口語俳句懇話会」の発足に務める、翌年には「口語俳句協会」と改める。
口語俳句協会の役員や現代俳句協会顧問などを歴任。
妻は自由律俳人の湖 光子である。
句集に「光と影」「だてがみ」「遠雷」「黒潮」などがある。
蘿月が亡くなった後、『詩人蘿月』を出している。

代表句

・妻と口きかぬどびんの口がこちら向いて
・いわし雲淋しがりやはまん中におく
・人にもいつか来る金魚のしがいすくひとる

略歴

三重県熊野市にて出生。
家業である佃煮製造業を継ぎ、食品会社を経営。
佃煮工業協同組合を組織した。
多くの人に慕われる人格者だったという。
肺炎により自宅のある埼玉県の病院にて逝去。

萩原蘿月

萩原蘿月(はぎわら らげつ)

本名・芳之助
1884年(明治17年)5月5日 – 1961年(昭和36年)2月

俳人であるとともに、俳句研究者として知られている。
若いころより俳句に親しみ、俳号蘿月は14歳の頃より使っていた。
内藤鳴雪や坂本四方太をはじめ、自由律俳句に対して、五七五や季語などを強く主張した伝統的な俳句の巨匠である高浜虚子の門人だったという異色の経歴を持つ。
新傾向俳句や自由律俳句を主導した河東碧梧桐荻原井泉水中塚一碧楼等の一派とは異なる系譜の自由律俳人として知られている。
1911年(明治44年)の秋ごろ、弘前高女の教師となるが、その地で触れた津軽の荒々しい自然に感動し、句風が変わることになる。
また、1916年(大正5年)ごろ、従来の「感激主義」から、「感動主義」を提唱するようになり、句風が変化した。
俳風としては、直接的な感動表現を入れることを主張する「感動主義」を標榜したことで知られる存在である。
明治学院大学の教え子に内田南草がおり、蘿月を支えるとともに「感動主義」を継承した。
1913年(大正2年)7月に「冬木」という俳誌を発刊、1928年(昭和3年)には「唐桧葉」を発刊している。
戦後は内田南草が主宰した「梨の花」(のち「感動律」)で活躍した。
著書に「詩人芭蕉」(後、「芭蕉の全貌」に改題)、「芭蕉の精神」があり、芭蕉研究家として著名であった。
他に「史論俳句選釈」「感動律俳句の理論と作品」という著書がある。
句集としては「雪線」や、三女の萩原アツが編纂した「萩原蘿月集」がある。

代表句

・大漁だシャオシャオ蝉が鳴き立てる
・顔を撫でてすべつこくて冬が面白い
・忘る事の願はしう冬に籠り居る

略歴

戸籍上は1884年5月5日生まれとなっているが、前年1883年の12月31日生まれとされる。
父親は芳助、母親はサクであり、その末子として横浜で誕生した。
父は商人であるが、俳句も嗜んでおり、俳号は萩露であった。
1906年に東京帝国大学に入学し、国文科を卒業した。
中学校や女学校の教師、東大文学部副助手、明治学院、東京農大、慶応義塾の講師、1915年(大正4年)には二松学舎専門学校の教授を務める。
最初の妻である茂が死去するなど、3人の妻に先立たれている。
子供は七人いた。
酒癖は悪く、また経済的な面に無頓着だった。
性格が狷介であったこともあり、交友関係は広くなかったが、友人には詩人の北原白秋がおり、よく家を訪問した。

参考文献