塩谷鵜平

塩谷鵜平(えんや うへい)

塩谷鵜平 自由律俳句

本名・塩谷熊蔵、後に宇平
別号・芋坪舎、華園
1877年(明治10年)5月30日 – 1940年(昭和15年)12月8日

中学から俳句をはじめており、最初は子規庵の句会に参加するなど、正岡子規の門下であり、「ホトトギス」にも投稿していた。
その後、新傾向俳句に魅力を感じ、河東碧梧桐に師事するようになる。
鵜平の句誌であった「壬子集」と合流する形で碧梧桐が主宰する海紅が誕生し、海紅に加わる。
海紅同人の自由律俳人として活躍する。
地元の岐阜で「鵜川」「俳薮」「土」など多くの俳誌を刊行する。
その中で1913年より発行した個人誌「土」は終生発行を続け28年間で315号まで発行した。
また、岐阜日日新聞の俳壇を担当していた。
句集として没後に「土」と「土以前」が刊行されている。
岐阜の鏡島弘法・乙津寺に鵜平の句碑がある。

代表句

・くちなしの匂ふとも云はぬ人たちや
・わが骨埋むも遠からず大地ここいらの芽
・曼珠沙華いよいよ長良川のいろ

略歴

現在の岐阜県岐阜市の代々続いている資産家の大地主の家に生まれる。
東京専門学校政経科(現、早稲田大学)を卒業する。
鏡島銀行の頭取を務める。
豊富な資産を背景に文壇のパトロンでもあった。
碧梧桐や作家である藤枝静男を援助したほか、高浜虚子経営の出版社である俳書堂への支援もした。

参考文献

瀧井折柴(瀧井孝作)

瀧井折柴(たきい せっさい・おりしば)

瀧井折柴 自由律俳句
本名・瀧井孝作
1894年(明治27年)4月4日 – 1984年(昭和59年)11月21日

作家(小説・随筆・評論等)、俳人
1908年、魚問屋で働いていた際、隣の店の青年から俳句を学んだ。
1909年、10代半ばの頃、新傾向俳句運動推進のため全国を行脚していた河東碧梧桐に認められ「ホトトギス」など俳誌への投稿を始める。
「折柴」と言う号は最初「おりしば」と呼んでいたが、その後、碧梧桐のすすめで「せっさい」と呼ぶ。
大阪に出て特許事務所で働きながら、句作をする。
1913年には最初の小説「息」を投稿し、そこで荻原井泉水に認められる。
1914年に上京した後、河東碧梧桐や、碧梧桐系の俳人である中塚一碧楼大須賀乙字らと句作をする。
1915年には俳句誌「海紅」の編集に携わる。
1917年から碧梧桐や中村不折らが中心となった六朝書道研究誌「竜眠」の編集をする。このように碧梧桐の影響で書と能に触れることになる。
1931年に新傾向俳句から自由律俳句へと進んだ577句を収録した「折柴句集」をやぽんな書房から出す。
この出版の後、定型俳句に変わった。
1950年に文壇俳句会が復活する。会には毎月出席する。
1961年、編纂をした『小沢碧童句集』が読売文学賞を受賞。
1969年長編小説の「俳人仲間」の執筆を開始し、73年に完成。74年にはこれで日本文学大賞を受賞する。
1974年から「続俳人仲間」を発表していたが、死去により完成しなかった。
句集・随筆集としては、上記の「折柴句集」の他、「浮寝鳥」(1943)、「雪間の菜」(1946)、「海ほほづき」(1960)、「瀧井孝作全句集」(1974)、「山桜」(1975)などがある。

代表句

・雨が窓を濡らす海紅の4月号作る
・桃の葉垂れたる夜寒をあるく
・蛍かごラヂオのそばに灯りけり

略歴

飛騨高山(現、岐阜県高山市大門町)にて指物師の名人である瀧井新三郎とゆきの次男として出生。
高山尋常小学校へ入学する。
1906年に母が逝去。
卒業後、魚問屋で丁稚奉公をする。
1912年、18歳の時に碧梧桐と相談して、大阪に出る。
大阪では特許事務所で働く。
1914年、現在の東京千代田区の特許事務所で働く。
この頃、「夜の鳥」と言う小説を新聞に連載している。
1915年に早稲田大学の聴講生となる。
1919年に「時事新報」の文芸部記者となり、芥川龍之介と知り合う。
この年、吉原の娼妓であり、後に小説「無限抱擁」のヒロイン松子として描くことになる榎本りんと結婚する。
1920年には「改造」の文芸欄担当の記者となり、生涯の師となる小説家の志賀直哉と出会う。
志賀直哉の代表作である「暗夜行路」を改造誌にもらう。
滝井孝作は小島政二郎、佐佐木茂索、南部修太郎と4人で「龍門(芥川龍之介)の四天王」と呼ばれることがあるが、志賀直哉門下というのが適切である。
1921年、記者の仕事を辞し、小説「無限抱擁」の雑誌への掲載をはじめる。
1922年、妻のりんが死去する。志賀のいる千葉県我孫子市に移り、家族のように扱われる。
1923年、志賀を追って京都に移り、そこで志賀邸に住み込んでいた篠崎リンと志賀夫妻の媒酌で再婚する。リンは安孫子にいたころから産婆として志賀と接していた。この過程は「結婚まで」と言う小説に描かれる。
1924年、リンとの間に長女が生まれる。
1925年、志賀を追って今度は奈良へ移る。この地で古典文学を学ぶ。
1927年、芥川龍之介が自殺をし、葬儀のため東京に行く。
同年、「無限抱擁」を出版する。
1930年、これ以後、妻の故郷である東京八王子市に住む。ここで妻のリンは産婆を開業する。
1932年から釣りをし始めるが、これらは小説、随筆、俳句などに書かれる。
1935年から1982年に辞すまで芥川賞の選考委員を務める。第1回から86回まで通算46年の長きにわたって務めた。
1936年、父の新三郎が死去する。
1938年に内閣情報部からの依頼で中国の武漢作戦に同行し、レポートを書く。戦時中には大政翼賛会の会に参加するなどした。
1939年から1946年まで小説執筆をやめる。
1950年、通俗的な文壇の趨勢に背き「風景小説」の執筆を開始。
1953年から57年にかけて、志賀直哉夫妻と小旅行する会に同行する。
1954年には将棋二段、1956年には三段、1960年に四段、1974年に六段と順調に将棋の腕を上げる。鮎釣りも行う。
1959年に日本芸術院会員となる。
1969年に短篇集「野趣」で読売文学賞を受賞。また勲三等瑞宝章も受賞した。
1971年、師であった志賀直哉が逝去する。鮎釣りもこの年で辞める。高山市名誉市民に選ばれる。
1973年、「志賀直哉全集」刊行の編集委員に任命される。
1974年、文化功労者に選ばれる。
1975年、勲二等瑞宝章を受ける。八王子市の名誉市民になる。
1977年、書の個展を始めて開催する。
1978年~79年に「瀧井孝作全集」全11巻と別巻全集が刊行される。
1984年に急性腎不全にて逝去。

参考文献

定本 滝井孝作全句集

作家の自伝 (88) (シリーズ・人間図書館)

無限抱擁 (講談社文芸文庫)

志賀さんの生活など―随筆集 (1974年)

上田都史

上田都史(うえだ とし)

上田都史 自由律俳句
本名・上田馮介
別号・瓢海、斗志
1906年(明治39年)9月23日 – 1992年(平成4年)8月30日

自由律俳人であり、自由律俳句の研究家、評論家である。
多くの著書を通して、尾崎放哉山頭火を世に広めた人物の一人である。
自由律俳句の歴史を知るためには都史の著書は欠かせないと言われる。
祖父の影響もあり、10代の頃から俳句を詠む。
尾崎放哉、種田山頭火、荻原井泉水に学んだ。
八王子市西浅川町の金南寺境内に「男地球に立ち夕映えに言うこと多く」の句碑がある。
また、俳人の金子兜太らと旅したときの「香港 廣州 桂林からの手紙」などの著書もある。

代表句

・男地球に立ち夕映えに言うこと多く
・豆腐屋うらへ廻った陽も廻った
・スカーフは水色春の投網華麗にて

略歴

京都で出生。
父は海軍の教官、祖父は俳人として名を成した上田聴秋(花本聴秋ともいう。花本流派11世宗匠。京都の俳壇で大きな影響力を持つ)である。
東京中学校(現、東京高等学校)を中退。
江田島の海軍兵学校在籍。
1948年~1969年に精神病院である駒木野病院で働く。事務長であった。
病院を辞して後、内部告発書である「むなしい壁との対話」を出版。

参考文献

俳人山頭火―その泥酔と流転の生涯

自由律俳句とは何か

人間尾崎放哉―脱俗の詩境とその生涯