吉川金次(よしかわ きんじ)
1912年(明治45年)- 1996年(平成8年)
鋸職人、鋸研究家という異色の自由律俳人。
俳句は東京に出てから始めた。
当初は「祭饗」の同人となり、定型俳句を詠んでいた。
1906年に生地の氏家町を河東碧梧桐が訪れた影響もあり、1936年に「海紅」(中塚一碧楼主宰)同人となった。
※この時、碧梧桐は既に俳壇から引退していた。
金治の詠んだ俳句はプロレタリア俳句が多かった。
(共産党員であり、迫害を受けたこともある)
これは海紅系の俳人としては異色とされている。
1947年に第1句集の「せきれい集」、1958年には第2句集の「かわはぜ」を出版している。
1968年より、生地の氏家町の俳句の研究を始め、1972年にその成果である「氏家町の俳句史」を出版する。
1977年には長年の創作活動を評価され、東京作家クラブより、第十四回文化人間賞に選ばれた。
代表句
・金なく仕事なく薄氷の下に芹を見た
・天地に恥じず朝独房で糞するとき
・僕のゆくてたゞ手にする古作の面の重量感
略歴
栃木県塩谷郡氏家町(現、さくら市)にて多喜次とキチの子として出生。
家は鍛冶屋を営んでいた。
1926年に氏家尋常高等小学校高等科を卒業。
1933年に東京に出て、鋸の目立て業で生計を立てた。
1936年に妻のトクを迎える。
1944年に生地である氏家に疎開するが、1948年に東京に戻る。
鋸に興味があった金次は東京国立博物館にもよく行ったが、1949年、展覧会で展示されている鎌倉時代の巻物に書かれている鋸が現在のものと異なっていることに興味がわき、独学で鋸の研究を始めた。
鋸職人であるとともに、鋸研究家としても第一人者であり、鋸に関する著作も多い。
これらの著作は民具学、考古学においても、貴重な文献である。
金次は研究のために収集した鋸のコレクションなどがあったが、出身地である氏家町に民俗資料館が出来たので、1972年にそれを寄付し、「鋸館」ができた。
現在はそれらのコレクションはさくら市ミュージアムに引き継がれている。
また、狂言師の野村万蔵の門下となり、能面彫刻を手がけたこともある。
参考文献