岡野宵火

岡野宵火(おかの しょうか)

本名・岡野義男
別号・紡紅子、漂々人
1916年(大正5年)10月 –1951年(昭和26年)12月13日

層雲同人の自由律俳人。
ロマンティックな俳句を詠み、平松星童北田千秋子らと共にロマン派と称される。
層雲に飽き足らず、「河童」を発刊する(18号まで存続)。
句集には「 赤光」がある。

代表句

・かさのなかもはなしがあってゆく
・わかれてしまえば月にひらひら遠くなりゆく
・べにのついたすいさしが煙って宵になったばかり

略歴

二十歳の頃は音楽部、拳闘部、野球部員に在籍。
21歳の時には女性と文通するが、相手の父親に見つかる。
22歳の時、しろうとハワイアンバンドを結成し、ダンスパーティなどに出演するなど、青春を謳歌していた。
1938年 23才の時に兵隊検査に合格する。
24の時に湿性肋膜炎に罹り、その後、病床につく。
1941年に伊豆で静養。
その際、下田にある書店(双葉書房)の主である土屋兎子との縁で自由律俳句の道に進む。
その土屋兎子の娘、芳江に恋するが父親に猛反対される。
芳から紡、江から紅とした号である紡紅子を名乗る。
1943年、44年、清瀬の保養園に入院するが、芳江は毎日のように通う。
その後、全快し、44年11月にに杉並大宮八幡で結婚する。
戦争中は山梨県大月に疎開する。
戦後は杉並の家に戻るが、妻のよし江が発病。
退院の予定があったが、腸捻転を起こし、26才の若さで逝去。
よし江の七周忌の年に宵火も杉並療養所で逝去した。
法名は悟生院法良雄徳信士である。

近木圭之介

近木圭之介(ちかき けいのすけ)

近木圭之介 自由律俳句
本名・近木正(ちかき まさし)
前号・黎々火
1912年(明治45年)1月22日 –2009年(平成21年)3月9日

20歳の時に層雲に加わる。
その頃名乗っていた黎々火の「火」は山頭火の火から影響を受けてつけた。
1941年に第2回層雲賞を受賞。
知的で味わいのある俳句で知られる。
画家としても活動。
種田山頭火との交友関係でも知られる。
山頭火の名句「うしろ姿のしぐれてゆくか」と共によく用いられる山頭火の後ろ姿は圭之介が撮影したものである。
山頭火との縁は大山澄太と小郡にある山頭火の其中庵を訪問したことに始まる。
句集として、「近木圭之介詩抄」「ケイノスケ句抄」がある。
また、「 近木圭之介詩画集」を出版している。

代表句

・あの雲が落とした疑問 山頭火何処へ
・今を生き。それだけに生き 終るか
・冬の蝶々よ旅立つという山頭火よ

略歴

森冨織太の三男として福井県で出生。
その後、小学校1年まで父の仕事(逓信省)の都合で金沢市に住む。
父の兄の長男が亡くなり、本家である近木満平・ツネの養子となる。
山口県下関市長府にて、父母、祖父母と5人で暮らす。
小野田市の興風中学(現在の小野田高校)を卒業。
卒業後、昭和恐慌の影響で仕事がなく、日本画、俳句、詩などを作って遊ぶが、見かねた母の斡旋で門司鉄道局本局に勤める。
山口県下関市の病院にて97歳で逝去。
死因は呼吸疾患。。

参考文献

うしろ姿のしぐれてゆくか―山頭火と近木圭之介

七戸黙徒

七戸黙徒(しちのへ もくと)

本名・七戸平吉
1890年(明治23年)2月9日 –1933年(昭和8年)5月13日

層雲同人として活躍。
荻原井泉水が「北の北海道には七戸黙徒のごとき大きな星もあった…」と述べるほど、北海道を代表する自由律俳人だった。
句集に「父を打てや」がある。

代表句

・死人に着せし米俵の米がこぼれたり
・貧しき父を馬にして勇めるぞ吾子は
・蟹工船に乗込む雪をかじっている

略歴

北海道岩内町にて出生。
北海道札幌師範学校本科第一部を出て、教育職につく。
室蘭市威徳高等小学校訓導、上磯郡茂邊地小学校訓導兼校長(昭和2年)、浦河小学校訓導兼校長(昭和6年)等を歴任。
女子教育の重要性を主張し、浦河高校の前身である浦河町立実践女学校の設立に奔走した。
室蘭市日本製鋼所病院にて43歳で逝去。
浦河小学校で校葬が行われた。

参考文献