北田傀子

北田傀子(きただ かいじ)

北田傀子  自由律俳句
本名・北田茂
前号・千秋子
1923年(大正12年)5月7日 –

層雲にて活躍、1947年には層雲賞を受賞する。
岡野宵火らの「河童」へも参加。
その句風からロマン派と称されていた時期もある。
2001年にレトリックを多用する俳句が増えた層雲を去り、その後、自由律俳句結社の「草原」を主宰すると同時に、同名の月刊誌を発行。
自由律俳句に対して、「随句」という名称を使うことを主張。
定型俳句の異端的存在とされることを避けることを意図したと思われる。
自身の随句論もまとめている。

代表句

・また雨音の葉の音
・死んだ蝉が砂風で動く
・女を待って碑の裏を見ている

略歴

現在の山口県周防大島町小松にて出生。
その後、上京し薬局勤務をしながら夜間学校に通う。
戦時には招集され、台湾の台北にて終戦。
終戦の年に東芝に入社し、定年(1983年)まで働く。
東芝時代、タイへ単身赴任していたこともある。
このタイ時代に放哉や山頭火の句を読み込んだ。
1956年には神奈川県座間市に移る。
座間市文化財調査員の委嘱を受け、歴史の調査に携わったこともある。
2005年には座間市功労賞も受賞している。

参考文献


参考サイト

草原WEB

平松星童

平松星童(ひらまつ せいどう)

本名・平松美之
別名・平松仙吉
1926年(大正15年)4月 – 1987年(昭和62年)2月24日

詩人・俳人の他、劇作家・演出家など文芸面で多彩な活躍を見せた。
1942年に層雲に加わり、1947年には層雲賞を受賞する。
1949年に演劇活動に力を入れるため層雲を去る。
1969年に層雲に復帰した。
層雲での俳人としての活動は意外に短かったが独自の世界観のある俳句を詠んだ。
ロマン派と称されることもある。
句集に「青いスポット―自由律句集」がある。

代表句

・月よりもランプはあかるい母と子
・月夜のふうりん屋がとほる
・なみだふきながららくがきしている

略歴

東京にて出生。
父親を継いで医者になるべく慈恵医大予科に進学するも、文学に興味を持ち慶応大学国文科を出る。
慈恵医大に在学しているときにつみき座を結成するなど、主に演劇活動が主軸となった。
層雲を一時去った後は児童演劇に力を注いだ。
児童劇の代表作品としては「少年の旗」や「したきりすずめ」などがある。
またNHKやTBS等で脚本を書いたこともあった。
演劇界においては平松仙吉で活動した。
心不全のため60歳で逝去。

参考文献

橋本夢道

橋本夢道(はしもと むどう)
橋本夢道 自由律俳句
本名・橋本淳一
1903年(明治36年)4月11日 – 1974年(昭和49年)10月9日

1923年に「層雲」に加わるが、後に栗林一石路らと「旗」(弾圧により「俳句生活」などいくつかの名称を使う)を創刊するなど、プロレタリア俳句運動を推進。
新興俳句弾圧事件により治安維持法違反で入獄する。
戦後は、新俳句人連盟創立に参加し、活躍した。
没後の1979年に第7回多喜二・百合子賞を受賞。
句集として「無礼なる妻」「無類の妻」「良妻愚母」がある。

代表句

・うごけば寒い
・妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね

略歴

徳島県板野郡藍住町にて貧農の子として出生。
高等小学校を出た後、上京。
母には盗人にだけはなるなと言われた。
最初、深川の肥料問屋に勤務した。
その後、月島に移る。
月島小町と称された静子と出合って結婚。
句集の名称からわかるように妻を詠った句も多い。
銀座で「月ヶ瀬」というしるこ屋で働いたが、その際、あんみつを発案したのは夢道という説もある。
食道がんが肺に転移し、71歳で逝去した。

参考文献

橋本夢道物語―妻よおまえはなぜこんなに可愛いんだろうね

無禮なる妻―橋本夢道句集