河村花不言

河村花不言(かわむら かふげん)

本名・河村米吉
1891年(明治24年)1月15日 – 1947年(昭和22年)5月27日

「藻潮吟社」を作り句作をしていた。
その後、1912年に荻原井泉水の層雲に加わるが、井泉水に会ったのは1918年の北陸層雲大会だった。
1926年、井泉水に同行して石動から倶利伽羅峠へと奥の細道の跡をたずねる旅に同行した。

代表句

・大声あげてあら海を漕ぐ小舟なり
・よごれしわが姿こそ人に親しまれ
・貧しかりしヂヂババのこれが水甕

略歴

石川県鳳至郡能都町宇出津にて出生。
生業は米屋。
米屋の人の良いおじさんという人柄で、地元でも俳人、詩人として知っている人は少なかったという。
脳溢血を患い、身体が不自由になったという。
1947年に亡くなった。
その後、1970年に井泉水夫妻が墓参りに訪れた。

下山逸蒼

下山逸蒼(しもやま いっそう)

下山逸蒼 自由律俳句
本名・下山英太郎
1879年(明治12年)2月9日 – 1935年(昭和10年)1月6日

若いころから狂歌、川柳、俳句などを詠んでいたが、サンフランシスコに渡り、その地で層雲に加わり自由律俳人となる。
「紙燭会」などの句会を作ったり、邦字新聞において俳句の指導を行うなど、アメリカの日系人社会で自由律俳句を推進した。
そのためアメリカ自由律俳句の創始者と言う評価もある。
渡米後、帰国することなく、サンフランシスコで生涯を終えた。

代表句

・渡って来たきりの太平洋がある
・コーヒー代もなくなつた霧の夜である
・松葉杖も脚も投げ出してかれしば

略歴

現在の岩手県盛岡市で下山友一郎とヨリの長男として出生。
家は旧盛岡藩士の家柄だったが、父親が借金を残して早くに亡くなり、母も家を去った。
高等小学校を出た後、県庁に給仕として勤務し、その後、測量技師となる。
1903年に渡米、シアトル経由でサンフランシスコに行く。
立身出世を夢見た渡米だったようだが、現実は厳しく、皿洗い等、いろんな仕事を転々とした。
俳句はそうした不満のはけ口となった。
1911年に荻原井泉水の層雲に加わり、翌年には直原敏平たちと紙燭会(後にレモン詩社)を作った。
悪性骨髄炎を患い、松葉づえがないと歩けなくなるが、その後、回復。
病気を患ったことにより、キリスト教に関心を向けるようになる。
その後、「新世界」の校正係として働くことになるが、再び病状が悪化し、サンフランシスコ郡病院で逝去。

参考文献

業句の海―小説・俳人下山逸蒼


参考サイト

粂井輝子「下山逸蒼資料について」海外移住資料館 研究紀要第6号

松尾あつゆき

松尾あつゆき(まつお あつゆき)

松尾あつゆき 自由律俳句

本名・松尾敦之
1904年(明治37年) – 1983年(昭和58年)

学生の頃より、荻原井泉水に師事して自由律俳人となる。
1942年には「層雲賞」を受賞している。
井泉水が亡くなった後、層雲の選者となる。
原爆により妻子を失う。
原爆について読んだ原爆俳人として著名である。
当時、原爆句は占領軍(GHQ)の報道規制に引っ掛かり、公にすることができず、これが発表されたのは1955年の「句集 長崎」以後である。
句集に「原爆句抄」がある。

代表句

・すやすや寝息たてている子のことで争つている
・なにもかもなくした手に四まいの爆死証明

略歴

長崎県北松佐々町にて出生。
長崎高等商業学校を出て英語教師となる。
市立長崎商業学校で教えていたが、その後、長崎市大浦の食糧営団事務所に勤めているときに長崎に投下された原子爆弾により被ばく。
妻の千代子(36歳)、長男の海人(12歳)、二男の宏人(4歳)、次女の由紀子(7か月)が相次いで亡くなった。
長女のみち子(16歳)はその時、生き残った。
戦後は佐世保二中で教えたことがある。
長野県へ移り、屋代東高校(現在の屋代高校)や松代高校にて教壇に立った。
その後、再び長崎に戻る。

参考文献

原爆句抄―魂からしみ出る涙

松尾あつゆき日記―原爆俳句、彷徨う魂の軌跡 (長崎新聞新書)

花びらのような命―自由律俳人松尾あつゆき全俳句と長崎被爆体験