大山澄太

大山澄太(おおやま すみた)

大山澄太 自由律俳句
1899年(明治32年)10月21日 – 1994年(平成6年)9月26日

荻原井泉水の「層雲」に加わり、自由律俳人として活躍。
また山頭火の著作を編集したり、「俳人山頭火の生涯」「山頭火の道」を執筆するなど種田山頭火を世に出した人物として有名である。
句集に「五十年」がある。

代表句

・あめに目をあけてあまがえるぬれている
・落ちてどんぐり坐つている
・坐しては観る山のむこうの山
略歴

岡山県井原市で出生。
大阪貿易語学校英語科を卒業。
逓信省に入省後、逓信講習所教官、逓信事務官の他、内閣情報局嘱託や満州国郵政局講師など、官吏としても活躍している。
戦後は愛媛県で社会教育や執筆を行っており、昭和38年に愛媛県教育文化賞を受賞した。
座禅を山崎益洲老師の元で学び、宗教家としても知られる。
「坐禅五十年」「般若心経の話」などの著書もある。
その他、数十に及ぶ著書、共著などがある。

参考文献

俳人山頭火の生涯

山頭火の道

山頭火著作集〈1〉あの山越えて (1972年)

山頭火の宿

海藤抱壺

海藤抱壺(かいどう ほうこ)

本名・海藤寛
1901年(明治35年)5月13日 – 1940年(昭和15年)9月18日

句集に「三羽の鶴」がある。
種田山頭火が病床を見舞うなど交流があり、山頭火が詠んだ以下の句が残されている。
「風鈴鳴ればはるかなるかな抱壺のすがた」
「抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく」

代表句

・日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴
・死の近し青木の実は赤ききわみ
・わが心のやうな林檎があるナイフのそば

略歴

宮城県仙台市にて出生。
県立仙台二中(現在の仙台二高)に入学するが、肺結核を患い中途で退学する。
病気療養のため自宅で療養生活を送ることになる。
この頃より聖書を読み、キリスト教に傾倒する。
その後、荻原井泉水の「層雲」に加わる。
病状悪化し、39歳にて逝去する。
抱壺はクリスチャンであったが、家は浄土宗だったため、葬儀は仏式だったという。
海藤家は弟であった日出男氏が継いだ。
海藤家の墓は西多摩霊園にある。

中原紫童

中原紫童(なかはら しどう)

中原紫童 自由律俳句
本名・中原礼二
別号・中原光石蕗 成之良
1899年(明治36年)3月6日 – 1963年(昭和38年)11月6日

岡田機外の門人となり、俳句を学ぶ、
その後、「層雲」に加わり、河本緑石、重村百堂などと層雲山陰支部を作る。
号は最初、中原光石蕗と名乗るが、その後、本名の礼二、成之良、紫童と何度か変えた。
また、一貫して層雲にいたわけではなく、何度か入会、脱退をした。
層雲を脱退しているときに、自由律俳句誌の「短律」を刊行していたこともある。
昭和38年に層雲賞受賞。
教育者としても知られており、初代鹿野中学校長でもあった。
亡くなった翌年に遺句集「月がのぼる」が刊行される。

代表句

・自動車が好きで好きで金色の自動車にのつてゆく子
・胸の悲しさ秘めきようも人の子教えにゆく
・夏に痩せ詩に痩せ白き豆腐を愛す

略歴

鳥取県の気高町にて中原久太郎・こよの長男として出生。
教育者として但馬国餘部小学崎分教場、気高郡鹿野小学校、鳥取県立鳥取第二中学校、鹿児島県立加治木中学校などで勤務。
その後、朝鮮に渡り、全羅北道祖里公立高等女学校、慶尚南道釜山公立高等女学校で勤務後、戦争に伴い帰国し、名古屋市私立愛知中学校に勤務。
鳥取に戻り、初代鹿野中学校校長など県内の学校にて勤務する。
肺ガンのため鳥取生協病院にて入院。
その後、64歳にて逝去。

参考サイト

中原紫童