秋山秋紅蓼

秋山秋紅蓼(あきやま しゅうこうりょう)

秋山秋紅蓼 自由律俳句

本名・秋山 鉄雄
旧号・紅蓼

1885年(明治18年)12月24日 – 1966年(昭和41年)1月19日

10代の頃から、「新声」「ホトトギス」「国民俳句」「俳諧草紙」などに詩歌や俳句を投稿していた。
「かふふ吟社」(甲府吟社)を作る。
「層雲」が出来ると、それに呼応、抒情的な自由律俳句で知られた。
層雲撰者、及び編集者としても活躍。
句集として「夜の富士」「兵隊と桜」「梅花無限」、俳論として「俳句表現論」がある。

代表句

・僧一人わたりゆき長き橋夕空
・夕べ吹かれているみんなふるさとの草
・船を満月の町につける

略歴

山梨県鰍沢にて呉服問屋を営んでいた大黒屋の二男として生まれる。
青年時代をこの地で過ごす。
高等小学校を出た後、勉学のために東京に出るが、病気のため療養生活をする。
その後、旅館を営んだ。
昭和29年には旧鰍沢町制60周年記念式典において、文化功労者として表彰を受けた。

参考文献

荻原桂子

荻原桂子(おぎわら けいこ)

荻原桂子 自由律俳句

本名・荻原慶子
1895年(明治28年)7月18日 – 1923年(大正12年)10月28日

旧姓は谷。
荻原井泉水の妻であった。

代表句

・此の産みの母を見る目も明かず逝く子よ
・小鳥唄わせ貧しき国の吾は女王
・夕べとなれば風が出る山荘よともし火

略歴

東京芝区で谷寅蔵の次女として出生。
麹町女学校から日本女子大学の家政科に入学するが、後に退学する。
大正2年に荻原井泉水の妻となるが、大正12年に28歳の若さで亡くなる。
法名は徳泉院妙行日貞信女である。
句集として「寂光帖」(桂子句集)がある。

参考文献

荻原井泉水との“哀歓の日々”―夭折の俳人・句集『寂光帖』著者荻原桂子小伝 (層雲叢書)

和田光利

和田 光利(わだ あきとし)

号は秋兎死

山形県 鶴岡在住の層雲同人。
句友の種田山頭火が和田光利を訪ねたエピソードは有名である。
妻、二三子は短歌をしていた。

代表句

・麦は刈るべし最上の川のおしゆくひかり
・すすきから旗出してすすきのなかにも一軒

略歴

祖父の代には荘内藩(現、山形県鶴岡市)を領した酒井家の重役の家柄だったという。
酒井家は徳川四天王にも列した譜代の名門であった。
しかし、光利の頃には貧窮のなかにいたという。
だが、種田山頭火が来るという葉書をもらい、酒などでもてなすために蔵書を売り払い、職場の宿直を他人と代わったりしてお金を貯めた。
やってきた山頭火はしばらく光利のもとに滞在したが、その間、一流料亭で名妓を侍らしたり、料理屋に上がったりして遊び三昧。
その後始末は光利が苦労して支払った。
トンデモナイ迷惑をかけられたわけだが、光利は山頭火に対して「すこしもうとむ気持ちにはならなかった」という。
自責の念に駆られた山頭火は近所の銭湯に行くといったまま、浴衣に手拭い一本で姿を消した。
つまり、失踪したわけである。
このエピソードは山頭火の来歴に関して、よく語られるものの一つである。
ところで、光利の近くには軍事思想家として知られた元将軍の石原莞爾がおり、光利は話をしたことがある。

参考文献

【バーゲンブック】 山頭火 研究と資料 山頭火の本別冊1新装