おじゃらりんご

おじゃらりんご

おじゃらりんご

旧号・おじゃら りか/おじゃら倫子
洋名・Rica Ojara Manzana

昭和生まれ-

自由律俳句会 林檎幻空を主宰する。
インドネシアのバリ島移住前後の時期より、インターネット上で俳句を研鑽する。
2017年に自由律俳句会 林檎幻空の活動を開始し、毎月、同人たちと電子書籍にて俳句集を発行するなど活発に活動している。

代表句

・ピカソも山頭火もアタシも裸足
・モスクにも教会にも雨
・ぢっと見つめている 花模様の爪ピポパ

略歴

東京都足立区北千住に生まれる。
公立高校、某私立大学商学部を経て石油元売り会社に就職。
10年勤務した後、早期退職制度を利用し、インドネシアのバリ島/芸術の村 UBUDに移住する。
2003年に帰国後、北千住にアトリエを構える。
2007年、北千住に、アートギャラリー「おじゃら画廊」を開店。
現代芸術家として、前衛的な表現の作品を中心に様々なジャンル(油彩、日本画、彫刻(塑像)、陶芸等)の創作活動を行っている。

横山林二

横山林二(よこやま りんじ)

本名・横山吉太郎
旧号・賀茂水
1908(明治41年)12月20日 –1973(昭和48年)2月25日

1924年(大正13年)層雲に入り荻原井泉水門下となる。その後、栗林一石路橋本夢道などと共にプロレタリア俳句運動を行う。
1930年に層雲退会後、「尖行」を設立(後、「俳句前衛」となる)。「プロレタリア俳句」「俳句の友」「俳句生活」などを創刊するが、治安維持法により、1941年から1943年まで投獄される(新興俳句弾圧事件)。
戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員、「道標」同人。
死去した年、「俳句人」1973年6月号で「横山林二追悼特集」が組まれている。遺稿である「喪失」の他、関係者が寄稿。

略歴

東京都港区に生まれ、芝新網町(現在の浜松町)で成長する。芝新網町は江戸期以来、三大貧民窟として知られ、明治以降もスラム街を形成していた。
父は露天商、母は日雇い、姉は芸者、女工として生計を立てていた。林二は貧民層のために作られていた特殊小学校や専修商業学校を経て、早稲田大学政経学部卒。
こうした経歴がプロレタリア俳句へと進んだ背景と思われる。
品川区上大崎の自宅にて64歳で逝去(喀血による窒息)。

住宅顕信を描いた映画「ずぶぬれて犬ころ」から考える

執筆者:凡夫

25歳の若さで世を去った自由律俳人の住宅顕信を描いた映画「ずぶぬれて犬ころ」の制作が進んでいます。

完成予定は2018年の2月ということで、顕信が生きた岡山でロケが行われているようです。

監督は岡山県赤磐市出身の本田孝義氏、顕信役には木口健太氏が他にNHKの朝の連ドラ「あぐり」のヒロイン役だった田中美里 氏も出演するようです。

製作費はクラウドファンディングで集められました。

目標250万円だったのが、それを上回る300万円集まったそうです。

この題名である「ずぶぬれて犬ころ」というのは、住宅顕信の代表句の一つです。

すごく印象的な句ですね。

因みに顕信が傾倒していた尾崎放哉には「朝早い道のいぬころ」という句があります。

若くして亡くなったこともあり、顕信はそれほど多くの句を残していません。

生涯で詠んだ自由律俳句はわずか281句です。

しかし、その句は非常に高い評価を受けています。

自由律俳人として世に名高い人物としては尾崎放哉種田山頭火が挙げられますが、それらの句に匹敵するとも言われているほどです。

顕信の代表句として、他に「若さとはこんな淋しい春なのか」というものがあります。

浄土真宗の僧侶でもあった顕信は普通の人達よりも死と向き合えた面はあったのかもしれませんが、それでも、そんな若さで亡くなるのは無念だったと思います。

しかも幼子もいたわけですから…

ところで顕信の俳句の才能は生前から一部の人達には知られていましたが、多くの人に知られるようになったのは亡くなってからだと言えます。

一人の若者は亡くなりましたが、残した俳句は多くの人々を魅了し、生き続けていると言えます。

俳句には人間の寿命を超えて生き続ける、そうした魅力があります。

それにしても、放哉や山頭火のように人生自体がドラマになるかと言えば、顕信の場合、一般人よりも劇的な人生だったとはいえ、ちょっと微妙な感じ…

どのように映画が仕上がるのか、期待と共に不安もあるのが正直なところです。

ですが、住宅顕信の句は本当に人を惹きつける魅力があります。

映画を機にさらに多くの人に知られるようになってほしいものです。