放哉の小径紀行(鳥取県鳥取市)ー前編

放哉の小径

尾崎放哉 自由律俳句

鳥取県鳥取市生まれの自由律俳人、尾崎放哉が生まれたのは西暦で言うと1885年です。
その生誕130年を記念して鳥取市に「放哉の小径」が設定されています。
パンフレットがあるので掲載しておきます。
放哉の小径 地図
場所は放哉の生誕地周辺になります。
放哉の生家は元鳥取藩士だったこともあり、鳥取城のある久松山の麓付近に放哉の小径があります。

パンフレットの左上のほうに鳥取城や鳥取県庁があります。
鳥取西高等学校から始まり、そこから南のほうに下る感じで、最後は尾崎放哉生家跡まで続いています。

つまり、鳥取市の観光スポットである鳥取城とコラボ出来る絶好のロケーションにあるので、訪ねてみるには最適の場所です。
きっと若き日の放哉が歩いた場所を実際に巡ってみれば、放哉への思いはさらに高まると思います。

ここでは放哉の小径をご紹介します。

●旧鳥取県立第一中学校

放哉の小径の出発点は鳥取西高等学校になります。
尾崎放哉 鳥取西高等学校
ここは放哉が卒業した鳥取県立第一中学校の後身に当たります。
中学時代の放哉は野球や文学に活躍していました。
その後のエリートコースを期待させる前途洋々たる少年時代だったと言えるでしょう。
放哉は鳥取藩の時代に藩校であった尚徳館の流れをくむ、この名門の鳥取一中を卒業して東京へと羽ばたいていきました。

※尾崎放哉の中学時代の俳句

この鳥取西高等学校は鳥取城の堀の内側にあり、元々、鳥取城三の丸があった場所だそうです。
因みに上の写真の背後に写っている山が久松山で、この頂上に鳥取城がありました。

●吉川経家公の像

上記の鳥取西高の敷地のすぐ横に「吉川経家公」の像が建っています。
鳥取城 吉川経家
鳥取城といえば、かつて織田信長方と毛利方が戦った鳥取城での攻防戦が有名です。
実際に現地で戦ったのは中国攻めを任されていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と石見の国から来た毛利方の将である吉川経家です。
2万の敵の大軍に対し、毛利方の吉川経家は1800の兵と2000人の農民たちと共に援軍を待ちながら天然の堅固な城塞である鳥取城に籠城し、徹底抗戦をします。
しかし、毛利方の兵糧運び込みも失敗、また、たくさんの農民たちがいたこともあり、食料が尽き、餓死者続出という悲惨な状況に陥ります。
最早これまでと覚悟を決めた経家は自らの命と引き換えに城内の者の助命を願って自決します。
まだ30代半ばの経家には幼い子供たちがおり、子どもたちにわかるように、ひらがなで次のような手紙を残しています。一番下に書かれているのが子どもたちの名前です。

とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候
ひゃう(ろう)つきはて候まま 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候    かしこ
天正九年十月二十五日    つね家 花押
あちやこ 申し給へ   かめしゆ まいる   かめ五   とく五

内容を現代風に言うと「お父さんは鳥取で200日間頑張りました。でも、食べものがなくなってどうしようもなくなりました。だからお父さんの命と引き換えにみんなを助けることにしました。これで一門の名も上がると思います。この幸せな物話を是非聞いてください」というような感じです。

この戦いは「鳥取城渇え殺し」と呼ばれています。
因みに秀吉に従って、この戦いを主導したのがNHK大河ドラマの「軍師官兵衛」でお馴染みの黒田官兵衛です。


この話をモチーフにした鳥取城のマスコットとして「かつ江(渇え)さん」が発表され話題になりましたが、わずか三日で公開停止にされています。
かつ江さん
この鳥取城内には鳥取県立博物館や旧鳥取藩主池田家の別邸であった仁風閣(じんぷうかく)という国の重要文化財に指定されている洋館があります。また久松公園は桜の名所としても有名です。

せっかくですから、いろいろと回って鳥取の歴史や文化を感じてみると良いでしょう。

放哉の小径紀行(鳥取県鳥取市)ー中編に続く

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放哉の「北朗来庵」考

放哉の小豆島時代は庵で一人寂しく過ごしていたイメージがあります。
それは決して間違ったイメージではないのでしょうが、来訪者がいて賑やかだったこともあるようです。
それがよくわかるのが、放哉の「北朗来庵」という随筆です。

北朗来庵

この「北朗来庵」では 同じ自由律俳句の層雲同人であった陶芸家の内島北朗が放哉を訪ねて島にやって来た時の様子が面白おかしく語られてます。北朗は放哉の庵に5日間も滞在しました。

この随筆も著作権が消滅しているので、こちらから自由に読むことができます。

北朗はその後、荻原井泉水が亡くなった後、層雲の発行人として後を継いだ人物です。
二人の自由律俳人が出会ったわけですから、多くの句作が行われたと思いきや、「只五日間と云ふものニコ/\、ゴタ/\、して居た」だけで、一句も出来なかったようです。
お互いグダグダしながら、楽しんでいた様子が目に浮かびます。

北朗が到着するまでのバタバタした様子、そして北朗のいかにも芸術家的な態度が放哉には面白く感じたようです。

随筆の最後の部分に「風の如く来り而して又風の如く去る、北朗、あの芸術家の北朗よ健在なれ」と句友に対する思いを語っています。

北朗来庵は寂しい庵生活の中で放哉にとって楽しいエピソードだったに違いないでしょう。

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尾崎放哉の大学時代の俳句

一高から東京帝大へというエリートのパスポートを手に入れた放哉は従妹の沢芳衛に求婚します。
が、芳衛の兄であり東京帝大医学部卒の沢静夫に血族結婚による弊害という医学的理由により反対され、芳衛との結婚をあきらめます。
これが芳衛の芳を取って芳哉と号していたのを、芳衛への想いを放つという放哉に変えた理由だとされています。

また、東京帝大時代に放哉は難波誠四郎、田辺隆二、二村光三らと家を借り、鉄耕塾という名で同居生活を送ります。仲間たちと暮らすという学生らしさが窺えます。
この学生時代の友であった難波誠四郎はその後、放哉のサラリーマン時代に借金の保証人になったことから、放哉には大いに迷惑をかけられています。
にもかかわらず、東洋生命保険会社を追われたのち、放哉に再起させるため朝鮮火災海上保険株式会社の支配人職を斡旋するなど尽力してくれた友です。

以下は放哉の東京帝国大学時代の俳句です。

灌仏や美しと見る僧の袈裟

一斉に海に吹かるる芒かな

提灯が向ふから来る夜霧哉

提灯が火事にとぶ也河岸の霧

春浅き恋もあるべし籠り堂

泥沼の泥魚今宵孕むらむ

塗骨の扇子冷たき別れかな

郷を去る一里朝霧はれにけり

鏡屋の鏡に今朝の秋立ちぬ

木犀に人を思ひて徘徊す

光琳の偽筆に炭がはねる也

初冬の蘇鉄は庭の王者かな

飯蛸や一銭に三つちぢかまる

つめたさに金魚痩せたる清水哉

白粉のとく澄み行くや秋の水

夕ぐれや短冊を吹く萩の風

夕暮を綿吹きちぎる野分哉

行く秋を人なつかしむ灯哉

寝て聞けば遠き昔を鳴く蚊かな

本堂に上る土足や秋の風

七つ池左右に見てゆく花野かな

風邪に居て障子の内の小春かな

いぬころの道忘れたる冬田かな

鶏頭や紺屋の庭に紅久し

別れ来て淋しさに折る野菊かな

山茶花やいぬころ死んで庭淋し

煮凝りの鍋を鳴らして侘びつくす

紫陽花の花青がちや百日紅

大木にかくれて雪の地蔵かな

あの僧があの庵へ去ぬ冬田かな

一つ家の窓明いて居る冬田かな

団栗を呑んでや君の黙したる

春水や泥深く居る烏貝

すき腹を鳴いて蚊がでるあくび哉

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