尾崎放哉の高校時代の俳句

東京にある第一高等学校へ進学した放哉はそこで青春を満喫します。
漕艇部に属し、隅田川をボートで行き来しました。
放哉というとエリート人生から脱落し41歳で病没したこともあり、高校時代も青白い文学青年だったイメージがあるかもしれませんが、そうではなかったとようです。

また、一高時代の同級生であった藤村操が「厳頭之辞」を残し、日光にある華厳の滝に身を投げるという事件があり、大きな社会問題となりました。
この事件は放哉にも何らかの影響を与えたと考えられてます。

この一高時代に再興された一高俳句会にも参加。
そこで、一級上級生であり、後に自由律俳句の師匠になる荻原井泉水にも出会います。当時、井泉水は愛桜という号を名乗ってました。

荻原井泉水 自由律俳句
【荻原井泉水】

この一高俳句会の句会は根津権現の境内にある貸席でよく行われていたそうで、その頃の師匠格としては高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐などの錚々たるメンバーが揃っていました。
河東碧梧桐 自由律俳句
【河東碧梧桐】

以下は放哉の高校時代の俳句です。

しぐるヽや残菊白き傘の下

峠路や時雨晴れたり馬の声

酒のまぬ身は葛水のつめたさよ

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尾崎放哉の中学時代の俳句

12歳で中学に入った放哉は2歳上の級友たちとも一緒に勉学をしていました。
この頃には野球倶楽部である「練兵場組」に入るなど、スポーツの面でも活発だったようです。
後の放哉とはイメージが異なる中学時代だったのかもしれません。

既に中学時代から、文学に興味を持ち俳句を詠んでいた尾崎放哉。
梅史と号して校友会誌の「鳥城」(とりしろ)などに俳句を寄せていました。
まだ自由律俳句が生まれる前ですので、すべて定型俳句です。

この時期の放哉は俳句一辺倒というわけではなく、短歌や随想、短編小説など広く文学の創作に親しんだようです。
短歌では「梅の舎」という号を持っていました。
ですが、放哉研究家の小山貴子氏によると、より俳句に力を入れている印象があるとされ、その要因を当時の鳥取の文学的状況に求めています。
当時の鳥取では鳥取県岩美町出身の俳人坂本四方太の主宰する卯の花会が力を持っていたという状況がありました。坂本四方太は正岡子規門下で名高かった俳人の一人です。こうした状況が放哉が俳句に傾倒するきっかけを与えたのかもしれません。

この時期の放哉の動向に関しては、小山貴子氏の「鳥取一中時代の尾崎放哉」が参考になります。

以下は放哉の中学時代の俳句です。

きれ凧の糸かかりけり梅の枝

水打つて静かな家や夏やなぎ

木の間より釣床見ゆる青葉かな

よき人の机によりて昼ねかな

刀師の刃ためすや朝寒み

虫送り鎮守の太鼓叩きけり

露多き萩の小家や町はづれ

寒菊や鶏を呼ぶ畑のすみ

旅僧の樹下に寝て居る清水哉

欄干に若葉のせまる二階かな

見ゆるかぎり皆若葉なり国境

行春や母が遺愛の筑紫琴

病いへずうつうつとして春くるる

行春や母が遺愛の筑紫琴

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放哉の「入庵雑記」考

自由律俳人として著名な尾崎放哉ですが、実は珠玉の随筆も書いています。

これらの随筆は俳句とはまた違った魅力が感じられる作品です。

特に放哉の自由律俳句が前人未到の高みに達した小豆島時代に書かれた「入庵雑記」は放哉ファンなら是非とも読んでおきたいものです。

入庵雑記


「このたび、仏恩によりましてこの庵の留守番に座らせてもらう事になりました」から始まる、この入庵雑記には放哉のこれまでの来歴が自らの視点で語られていて興味深いものがあります。

因みに、作家の死後、50年が経過すれば著作権が消滅しますので、入庵雑記はこちらからインターネット上で読むことが可能です。とても便利な時代になりましたね。

さて、この入庵雑記には近いうちに死が迫っている放哉が、それを自覚しつつ、淡々といろんな思いをつづっています。

夢破れ帰国した放哉は、妻とも別れ、流転生活に入りますが、それは一所不住でさすらったわけではありません。京都の一燈園、知恩院塔頭常称院、神戸の須磨寺、福井県小浜の常高寺、小豆島の西光寺など仏教に縁がある場所を転々としたのです。

まさに冒頭に出てくる「仏恩」というものを感じさせられていたのがわかります。そして、この随筆の中では西光寺南郷庵という安住の地ができたことに対する感謝が語られています。それは俳句の師に当たる荻原井泉水、そして西光寺住職の杉本玄々子、小豆島にいる層雲同人の井上一二に対してです。

この作品の中で自分の来歴について語っていますが、家族のことは語られていません。父母、妻、想い人であった沢芳衛のことには言及されていないのです。おそらく敢えて言及しなかったのでしょう。放哉の意識の中にはこうした関係を絶つことで、仏教の出家に似た意識があったのではないかと思われます。

かと言って、仏教に帰依したと言うわけでもなさそうなところが興味深い点です。この南郷庵でシンプルなライフスタイルを獲得した放哉は仏教に帰依していったわけではなく、自由律俳句に邁進します。安住の地を得たこと、俳句に全身全霊を捧げられること、この点に関して仏恩に感謝しているのではないかと思われます。

入庵雑記において第一高等学校時代についての話が出てきます。そこでは一年上だった荻原井泉水との縁、一高俳句界での高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐のことが記載されています。その後、小豆島に来る前に京都の井泉水宅に転がり込んだときのことが書かれています。また、一燈園での生活についても書かれていますが、やはり家族や仕事と言った人生の大きな部分を占めていたはずの部分は綺麗に削げ落ちています。

おそらく1人の社会人としての尾崎秀雄を捨象することで、自由律俳人の尾崎放哉が完成したのではないかと思います。社会人としての尾崎秀雄と自由律俳人としての尾崎放哉。後者が一般に尾崎放哉のイメージとして流布しているわけですが、前者をより深く知ることが真の意味で尾崎放哉を理解することにつながると思われます。その意味では小山貴子氏が尾崎放哉の女性関係に焦点を当てたように、生活人としての部分にもっとクローズアップしていくことが重要と感じます。

暮れ果つるまで―尾崎放哉と二人の女性

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入庵雑記【電子書籍】[ 尾崎放哉 ]