伊東俊二(いとう しゅんじ)
本名・伊東甚之助
旧姓・蘆田(伯父の遺言で伊東姓になる)
別号・梭二
1909年(明治42年) – 2000年(平成12年)3月4日
1929か30年頃、層雲に加わる。
1930年から海藤抱壷と文通を始める。
1938年、荻原井泉水の配慮で尾崎放哉の終焉の地である小豆島の南郷庵に行って暮らす。
1939年、山頭火が小豆島の南郷庵を訪ねるが、俊二は不在。
山頭火は「庵主はお留守の木魚をたたく」の句を残す。
1940年2月、小豆島を引き払って渋谷の井泉水の所へ行く途中に海藤抱壷を仙台に訪ねる(この年、抱壷は逝去)。
1943年から層雲の編集を行う、同年五月号からは発行名義人になる。
戦争を挟んだ機関、層雲の編集を担当し、名編集者と言われる。
1951年4月に井泉水の逆鱗に触れ、層雲を追放される。
詳細は明らかでないが編集方針が原因と言う。
この件に対して、俊二が木下信三に「私は、ソーウンのあの頃の人にアイソツキマシテ、ヒタスラ沈黙です 何とイワレヨウト……」と葉書を出している。
その後、6月には自由律俳句誌の「連山」を発行するも、廃刊し、自由律俳句の世界から去る。
代表句
・父にふれた手を塩であらへとか
・ふつと空気といふものの中に私、生きてゐた
・君が案山子で私が人間で吹けば吹かれている
略歴
京都府福知山にて出生。
1931年結核になる。
1933年、自殺を考え、病気になって死のうと結核患者の看護行脚を行う。
丹波にいる伯父の伊東市蔵が病気になり、求められて戻り、2人で暮らす。
1935年に伯父死去。
1936年ごろ伊東家を継いで伊東姓となる。
1937年、丹波を離れて三重県の山寺に居住。
西村宗子の娘と結婚、2人の子が生まれる。
戦後は京都の東寺の近くに居住する。
妻は宿で働くが恋人ができ、俊二のもとを去る。
橋本夢道が京極であった頃はパチンコ屋で働いていたという。
その後、右翼のもとで働くという。