河本緑石(かわもと りょくせき・ろくせき)
本名・河本義行
1897年(明治30年)3月21日 – 1933年(昭和8年)7月18日
「りょくせき」と一般に呼ばれているが、本人のメモから「ろくせき」が正しいという説もある。
少年時代から義兄である河本謹一郎の影響を受け、緑鳥と号し、俳句を作り始める。
大正3年より荻原井泉水の門下となり、鳥取県の自由律俳句の嚆矢となる。
表現派風の句風を持つ。
宮沢賢治、種田山頭火、尾崎放哉、画家である中井金三、前田寛治等との交流も知られている。
故郷の鳥取県倉吉市に河本緑石記念館があり、自筆の手紙や絵画等、関連したものが展示されている。
代表句
・荒海の屋根屋根
・蛍一つ二つゐる闇へ子を失うてゐる
・風がおとすもの拾うてゐる
略歴
現在の鳥取県倉吉市福光にて河本定吉と政野の二男として出生。
倉吉中学時代には「東郷湖横断競泳」において記録を残したり、倉吉中学野球部に在籍して捕手として活躍するなど、屈強な体力を持っていた。
倉吉中学を卒業後、盛岡高等農林学校農学科に進学。
盛岡高等農林学校では宮沢賢治等とアザリヤ会を作り「アザリア」を発行。
また、在学時に父側の姻戚に当たる岡山県蒜山出身の石賀加寿代と結婚する。
卒業後、志願兵として兵役を務め、後に除隊。
その間、中学時代に知り合った前田寛治等と砂丘社を作る。
その後、長野県上伊那郡伊北農商学校の教諭、鳥取県実業補修学校教諭、鳥取県立農学校武道教師、同教諭兼舎監などを歴任。
重村百堂、中原光石蕗らと「層雲」山陰支部を結成する。
これらは後に「湖の会」となる。
詩集「夢の破片」を発行(序文は荻原井泉水)。
小豆島に行く前の鳥取県出身の自由律俳人、尾崎放哉と京都の井泉水宅で会う。
昭和8年に八橋海岸で水泳訓練をしているときに溺れた同僚(陸軍将校の江原大尉)を救助するが緑石は亡くなる。
36歳の若さでの死去であった。
「暑い日の影、軒ふかくして供養の膳」という井泉水の追悼句がある。
宮沢賢治の名作「銀河鉄道の夜」でカンパネルラは溺れたザネリを助けながら、自分は亡くなるが、このカンパネルラのモデルは緑石ではないかという説がある。
亡くなる頃、句集「大山」をまとめており、その後、井泉水、山頭火と大山を登る予定だったという。
昭和10年に「大空放哉伝」が刊行される。
参考文献