栗林一石路(くりばやし いっせきろ)
本名・栗林農夫(くりばやしたみお)
1894年(明治27年)10月14日 – 1961年(昭和36年)5月25日
層雲に共感し、同人となるが、その後、プロレタリア俳句運動に転換し、荻原井泉水を中心とした層雲と別れる。
橋本夢道らと「旗」を創刊(弾圧により「俳句生活」など、いくつかの名称に変える)。
その後、いわゆる新興俳句弾圧事件に連座する。
小林一茶の評論研究でも知られる。
桑原武夫の「第二芸術論」に対しても批判的だった。
反骨の俳人とも言われる。
代表句
・シャツ雑草にぶっかけておく
・どつと笑ひしがわれには病める母ありけり
・妻よさびしき顔あげて見るか夕空
略歴
長野県小県郡青木村で出生。
10代の頃から層雲に加入。
その後、東京に出て改造社に勤務し、同盟通信社会部長、それに東京民報編集局長や論説委員など、ジャーナリズムの道を歩む。
同時に俳人としても活躍。
プロレタリア俳句運動の道を歩みはじめ、層雲を離れる。
戦中は新興俳句弾圧事件などに巻き込まれ、治安維持法で検挙。
2年ほどの投獄生活を送る。
戦後は新俳句人連盟を作り、初代の幹事長になるなど活躍した。
書籍も句集や俳句論など多数出している。
「俳句芸術論」では桑原武夫の主張する「第二芸術論」を批判した。
の批判をした。
66歳で肺結核により逝去した。
参考文献