西垣卍禅子

西垣卍禅子(にしがき まんぜんじ)

本名・西垣隆満
別号・睡鶯老人
1897年(明治30年)10月7日 – 1987年(昭和62年)11月18日

中学時代より俳句を作っていたが、同じ曹洞宗の先輩に碧門三羽カラスの一人である喜谷六花がおり、その関係で河東碧梧桐風間直得、谷口喜作、小沢碧童などと知り合い、1920年代中頃より自由律俳人となった。
戦時中は「新日本俳句」「俳句日本」、戦後は「俳句と文学」などを発行または主宰した。
1947年に内田南草と「新俳句」を創刊する
著書に句集「手向野」「記念石と杉の実生」「奇僧天外」などのほか、評論「新日本俳句論」、小説「木人方歌」「残照の寺」、編著「新俳句講座」(全5巻)など多くの著作がある。
俳人としてだけではなく、俳句理論でも活躍した。

略歴

1897年に東京浅草にある曹洞宗寺院である萬年山東陽寺に生まれる(その後、関東大震災により、1928年(昭和3年)に足立区東伊興に移転する)。
1920年(大正9年)に東京美術学校日本画科を卒業。
1922年(大正11年)に帝国美術院展覧会(帝展)に初入選する。
父の死により東陽寺の住職となる。
「俳人卍禅子 日本画展作品集」の他、「小鳥の飼い方 趣味と実益」を大橋克己と共著で出すなど、多方面に活躍した。

参考文献