●尾崎放哉特集●

尾崎放哉 自由律俳句

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尾崎放哉は種田山頭火と並んで自由律俳句史上の2大俳人とされています。
鳥取県鳥取市に生まれた放哉は東京帝国大学(現在の東大)を卒業したエリート中のエリート。
しかし、酒の失敗等、サラリーマン生活に馴染めず、病気にもなり、結局、社会からドロップアウトしてしまいます。
妻と別れ、一燈円や知恩院、須磨寺などへと流転していき、最後は小豆島の西光寺南郷庵で息を引き取ります。
41歳という若さでした。

社会人としてみた場合、放哉はエリートから転落したダメ人間、負け組と言えます。
しかし、彼には俳句がありました。
社会的評価の失墜と反比例するかのように、彼の俳句は光り輝いていったと言えます。
逆に言えば、彼の転落が彼の自由律俳句を後世にまで残る高みへと押し上げたと言えるのです。
皮肉なものですが、社会人尾崎秀雄が抹消されていく中で、人間存在の本質に迫る眼を獲得していき、彼の俳句を本物へと変質させていったのでしょう。

ここでは、放哉の人生を振り返りながら、彼の詠んだ自由律俳句を見ていきたいと思います。

●尾崎放哉の誕生から中学卒業まで(1885-1902)

尾崎放哉こと尾崎秀雄は1885年(明治18年)1月20日に現在の鳥取県鳥取市で士族の家柄である尾崎家で父、信三、母、なかの次男として生まれました。長男は早くに亡くなっていたので、実際上は長男だったと言えます。父の尾崎信三は鳥取地方裁判所で書記官を務めており、家柄としても良い家柄であったと言えるでしょう。
中学は鳥取県尋常中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)に入学しました。ここは鳥取藩時代の藩校である尚徳館の流れをくむ由緒のある学校です。
中学時代の尾崎秀雄は俳句や短歌、随想などを校友会雑誌「鳥城」に発表したり友人と「白薔薇」を発行するなど広く文芸活動を行っています。後の尾崎放哉を形作る文学的土台が形成されていたと言えるでしょう。
また、親戚の沢家が鳥取に引っ越してきました。沢家には秀雄の想い人になる従妹の芳衛(よしえ)がいました。

この頃、詠んだ俳句

きれ凧の糸かかりけり梅の枝
よき人の机によりて昼ねかな

※尾崎放哉の中学時代の俳句

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● 第一高等学校時代(1902-1905)

鳥取県立第一中学校(旧鳥取県尋常中学校)を卒業した秀雄は東京の第一高等学校(通称、一高)法科に進学します。一高からは東京帝国大学に進むのが一般的とされているので、当時としては最高のエリートコースに乗ったと言えます。この一高時代、秀雄は夏目漱石から英語を教えてもらうなど文学の息吹を強く感じる環境にありました。

また、一高俳句会にも加わり、そこで一歳年上(秀雄は1月生まれ、つまり早生まれだった)の荻原井泉水とも知り合います。
まだ河東碧梧桐の新傾向俳句運動も始まっておらず、この頃の俳句はもちろん定型俳句でした。

この頃、詠んだ俳句

しぐるヽや残菊白き傘の下
峠路や時雨晴れたり馬の声

※尾崎放哉の高校時代の俳句

● 東京帝国大学時代(1905-1909)

一高から東京帝国大学法学部へ進学。秀雄の人生は希望に満ちていた時期と言えます。
俳句においてはホトトギスに投稿して入選するなどしています。
この学生の時期に最愛の従妹である澤芳衞に求婚しますが、親戚からの反対で諦めます。理由は血族結婚による遺伝的弊害という医学的理由だったようです。「芳哉」と名乗っていた号を「放哉」にします。

この頃、詠んだ俳句

一斉に海に吹かるる芒かな
別れ来て淋しさに折る野菊かな

※尾崎放哉の大学時代の俳句

● サラリーマン時代前半(1909-1921)

大学卒業後、日本通信社に入社。でも、そこを1か月ほどで退社します。この退社の理由は定かではありませんが、後のサラリーマン生活への不適合を予感させる出来事かもしれません。
その後、東洋生命保険株式会社に入ります。翌年の1911年に坂根馨という女性と結婚します。因みにこの年、荻原井泉水らが「層雲」を創刊します。
会社内では契約係長、大阪支店次長になるなど順調に出世していました。
東京帝大卒で家庭を持ち、仕事も充実、後に流転の境遇になるなど、この頃には考えられなかったことでしょう。

しかし、サラリーマン人生は順風満帆ではなく、1915年に東京本社に平社員として呼び戻されます。
ここで、一度挫折したと言えますが、この時期に、層雲に俳句が載ります。つまり、自由律俳人としての尾崎放哉がこの時期に誕生したと言えます。人生の暗転と反比例する放哉の自由律俳句の萌芽を感じ取ることができるかもしれません。

この時期以降、放哉はまだ人生をあきらめたわけではありません。引き続き、サラリーマンとして頑張ります。
しかし、契約課課長を務めるまでになっていましたが、1921年に課長の席を追われ、ついに退職します。

この頃、詠んだ俳句

妻が留守の障子ぽっとり暮れたり
灯をともし来る女の瞳

● サラリーマン時代後半(1922-1923)

東洋生命保険を事実上、クビになった放哉は再起を期し、かつての同僚で学生時代からの友人の紹介で新しくできた朝鮮火災海上保険株式会社の支配人として1922年に朝鮮に渡ります。今までの失敗は酒の上での失敗が大きかったことから、禁酒を誓っての再出発でした。

この時期、母のなかが逝去しますが、妻の馨だけが鳥取に戻り、放哉は戻らず仕事に邁進します。本気で新しい会社での再起を目指していたのでしょう。実母の死にも仕事を理由に戻らないのは、まだ復活の可能性が残されていた時期の意欲だと思われます。

しかし、翌年、この朝鮮の会社をクビになります。禁酒は結局、守れませんでした。その後、層雲への俳句の投稿が始まります。ここでも実社会での活躍と句作の動きが反比例しています。

朝鮮から再び、再起の可能性を求めて満州へと向かいますが、ここで肋膜炎を患い満鉄病院に入院します。これは社会人としての再起の可能性にとどめを刺す出来事だったと言えます。そして、帰国。この帰国は実社会での再起の可能性をすべて失った絶望的な帰国でした。

このサラリーマン時代後半は朝鮮から満州へと再起を賭けた行動で、希望の灯を心の中で燃やしていたはずですが、後から見てみると、既に流転生活が始まっていたと言えるかもしれません。

この頃、詠んだ俳句

小供等たくさん連れて海渡る女よ
海苔をあぶりては東京遠く来た顔ばかり

● 流転の時代(1923-1925)

1923年に希望を失って帰国した放哉は妻の馨と別れて一人京都の鹿ヶ谷にある一燈園に入ります。翌年には同じく京都の知恩院塔頭常称院に寺男として住みます。その後、兵庫県の須磨寺大師堂、福井県小浜の常高寺と次々と流転していき、京都の井泉水の元に転がり込みます。

エリートから転がり落ちていく流転の過程ですが、それに反比例して俳句のレベルがぐんぐんと上がっていきます。

この頃、詠んだ俳句

・一燈園時代

一燈園―西田天香の生涯


つくづく淋しい我が影よ動かして見る
ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる

・須磨寺時代

一日物云はず蝶の影さす
障子しめきつて淋しさをみたす

・小浜常高寺時代

雪の戸をあけてしめた女の顔
朝早い道のいぬころ

・京都での井泉水との同居時代

昼寝の足のうらが見えてゐる訪ふ

蓬ひに来たその顔が風呂を焚いてゐた

● 安住の時代(1925-1926)

安住の地を求める放哉に対して、井泉水は層雲の有力同人である井上一二のいる小豆島へ送ることを考えます。井泉水の問い合わせに対して、一二は適した場所が無いと断るつもりが、返事が無いのに業を煮やした放哉は小豆島に行ってしまいます。このときの一二の感情は彼の俳句「あたままろめて来てさてどうする」「海恋ふて風呂敷かかへて来た」という俳句に現れています。

しかし、来てしまった以上、仕方がありません。島の有力者として人望があった一二は同じく層雲同人で西光寺の住職であった杉本玄々子と相談し、放哉を西光寺奥の院南郷庵に迎え入れることにしました。性格に難があり、島では嫌われていたようですが、一二や玄々子らは彼の島での生活を支えました。

安住の地を求めてやってきた放哉の願いは叶えられ、亡くなるまでの8か月程の間をここで過ごします。最後は猟師の妻に看取られて亡くなりました。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。彼の晩年はこの病気との戦いであったとも言えます。

この安住の地、小豆島は放哉の俳句の才能がもっとも輝いた場所であったというのは誰もが認めるところです。死へとむかいつつある放哉の日常が淡々と俳句により紡ぎ出され、彼の代表句がここで多く詠まれました。

この頃、詠んだ俳句

足のうら洗へば白くなる
障子あけて置く海も暮れきる
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
墓のうらに廻る

・辞世の句

春の山のうしろから烟が出だした

エリートとして期待された人生が上手くいかなかった放哉ですが、この辞世の句からは絶望と孤独の中で悲惨な死を迎えたというよりも、何か明るい最期を思わせるものがあります。

※放哉の「入庵雑記」考

※放哉の「北朗来庵」考