内田南草(うちだ なんそう)
本名・寛治
1906年(明治39年) – 2004年(平成16年)11月19日
明治学院で萩原蘿月と出会い、門下となり、公私に渡り支援する。
蘿月の提唱する感動主義を忠実に受け継いだ。
南草の句に「たまに猫が通る冬の姿の蘿月句碑」というのがある。
1929年に「唐檜葉」(からひば)を発行、1939年に「多羅葉樹下」と改称する。
1947年に句誌「梨の花」を発行させ、1951年に「感動律」と改称する。
その後、「感動律」は南草が亡くなる2004年まで発行され続けた。
1957年に「口語俳句懇話会」の発足に務める、翌年には「口語俳句協会」と改める。
口語俳句協会の役員や現代俳句協会顧問などを歴任。
妻は自由律俳人の湖 光子である。
句集に「光と影」「だてがみ」「遠雷」「黒潮」などがある。
蘿月が亡くなった後、『詩人蘿月』を出している。
代表句
・妻と口きかぬどびんの口がこちら向いて
・いわし雲淋しがりやはまん中におく
・人にもいつか来る金魚のしがいすくひとる
略歴
三重県熊野市にて出生。
家業である佃煮製造業を継ぎ、食品会社を経営。
佃煮工業協同組合を組織した。
多くの人に慕われる人格者だったという。
肺炎により自宅のある埼玉県の病院にて逝去。